掛川の

 

人智の結集とライフスタイルの変革で、地域はもっとおもしろくなる。

 

長谷川 八重さん

はせがわ やえさん

NPOスローライフ・ジャパン 理事

 

― 掛川市のユニークな社会人大学「とはなにか学舎」の卒業生なのですね。

 

若い頃から自分のエネルギーがこの地域に収まりきれなくて持て余していました。結婚を機に東京から掛川に戻ったとき「ド田舎に帰ってきてしまった!」と感じ、「大人の目で掛川を見直さなければ、自分の将来は楽しくないぞ」と危機感を覚えました。そんなとき、とはなにか学舎を知り、「掛川にあるものをちゃんとひもといてみよう」と思って入学しました。

 

― 入ってみてどうでしたか?

 

ピンと来ました。1年目は「世の中はどうやって成り立っているのか」を教えてもらい、もの凄く面白かった。その頃、実家の商店を継ぐようになり、あそこの野菜がどうした、あのおばちゃんの生活がこうした、などと小さなところに目が行くようになりました。「こういう小さなところにこそ本当の豊かさはある」と気づくと同時に、「経済や社会はこうして成り立っている」という両極を学びました。2年目は、「どうしたら地域をもっと楽しく出来るか」という地域づくりのリーダー的ノウハウを叩き込まれました。小さいことの楽しさと、大きなことの面白さに気づき、その2つを結びつけるための自分の関わり方を模索・実践したのです。

 

― 今に至るための大きなきっかけですね。

 

学舎のコーディネーターを担った野口智子さんとの出会いは大きかったです。卒業後、身に付けたノウハウを継続させることが大事だったのと、野口さんのようなことが少しだけ出来るかもしれないと思い、受講仲間と活動グループを作りました。

 

― スローライフ活動への展開は?

 

向都離村(こうとりそん)」という言葉を知ったとき、原点である生涯学習はこの対極で、「生涯学習都市宣言」の本当の意味を理解しました。「スローライフ」という言葉を聞いて、「生涯学習の帰結はスローライフ」という感覚がストンと落ちました。しかし、2002年に掛川でスローライフ運動を1ヵ月間やると聞いたとき、「個人の価値観を社会運動にして押し付けるべきでない」と私は反対しました。野口さんから「いまはそんなこと言っていられない。世の中の価値全体を変えていかなきゃ。これは世直しなのよ」と言われ、心が動きました。田舎の商店経営を通じ、経済合理主義が進むと大変な世の中になるであろう事を自分なりに感じていました。真面目なメーカーや職人が廃業に追い込まれ、外国製の安かろう悪かろうの商品が横行し、信用出来ない物で商売をしなくてはならないのか、と。せめて、その危機感をもった人間がここで踏ん張らなければと、“スローな生活提案”を始めようと思いました。

 

― 一般的な世直しの感覚と違いますよね?

 

生活の知恵や変え方で世直しってところかな・・・人智とライフスタイルで世直し。生活を変えていけば、世の中は変わっていくのではないか、と。生涯学習がスローライフへと昇華し、地元でスローライフ掛川を立ち上げ、スローライフ・ジャパンにも関わり、この10年でスローライフの価値が認められてきたという実感はありますね。

 

―活動フィールドが広がると、交流の質も変化してきたのでしょうね。

 

日本の各地を訪問し、日本の良さ、美しさ、魅力などを、私的フィルターでひもといていくことが、スローライフ・ジャパン理事としての役割のひとつでしょうか。掛川で孵化した生涯学習という知恵とスローライフの価値観で活動範囲を日本に広げたとき、同じようなフィーリングや価値観をもった仲間づくりから、人智を結集した世直しにもう少し近づけるかな、と思うのです。

掛川の

 

商いと生活の心得に、報徳のスパイスを効かせて。

 

中田 繁之さん

なかだ しげゆきさん

掛川商工会議所 報徳思想啓発委員長

 

― これっしか処(どころ)の前は百貨店にお勤めだったのですよね?

 

縁があって、これっしか処の立ち上げに関わっていたので業務がどんな様子なのかは把握していました。50歳の時にお話をいただき、28年間のサラリーマン生活に区切りをつけて引き継ぐことにしました。こちらに移ったその日からすぐに車に乗って天竜まで集荷に行ってましたね。

 

― 始めてみてどうでしたか?

 

こういう小さな規模だと、自分の判断で思ったことがすぐに出来るし、大きな組織を飛び出したのが嬉しかった。集荷の途中で森町の辺りに広がる田園風景をみたときに、「うわあ、いいなあ」と思ったのは忘れられないね。まさにそういう開放的な気持ちでした。店のほうは、商売の現場に居ないとだめだと体感しました。現場に居れば答えが早いし修正も早い。バブル崩壊後で売上が落ち込んでいましたが、引き継いでから5ヵ月で過去最高レベルまで引き戻せたので、やりようによっては面白い商いが出来るな、と思いましたね。

 

― 商売のやりよう、というのは?

 

相手の気持を考えるという意味では道徳心というか、みんなが喜んでくれて結果的に売上が付いてきた。「こんな商品がここにあるの?」という反応が喜びであり、自分の支えになっている。道徳と経済のバランスは正にそこで、自分さえ良ければ、では店は駄目になるだろうし、お客さんが喜んでくれれば、自分は少し我慢してもバランスよく長い商売に繋がると感じています。

 

― 中田さんは以前から報徳を意識していたのですか?

 

道徳や報徳を習い始めたのは、これっしか処に来て45年経ってから。恵那市で、儒学者の佐藤一斎に関する市の取り組みが目に留まり、モノではなく思想もブランドになると気づきました。「だったら、掛川にもあるぞ」と思い、みんなと相談して報徳の教え26編を選び、やさしい言葉とイラストで伝える冊子「心のスイッチ」を作りました。

 

― その前から、みんなが幸せになれば、報徳で言う「自分に返ってくる」という感覚を持っていたようですが。

 

実は生活の中で「これが報徳だろう」というようなことはたくさん転がっています。「もっと道徳を」、と学校教育などで言われているけど、具体的な方策は伝わってこない。確かに、まず報徳ありき、だと抵抗感がある。でもひとつふたつと事例が出てきて、最後に振り返って、さらっと「それって報徳なんだよね」というように理解をすすめられたらな、と思います。

最近は、「報徳の話をして欲しい」といろいろなところに呼ばれるようになり、心のスイッチを持って出かけています。そこで出た話がひとつでも心に残って、地域や家庭に戻って子どもや孫に広がればすごく良いことだと思う。

 

―ご商売を通じて、この地域のことも見えるようになりましたか?

 

どこを押せばどう動くだろうというのは分かるようになったかな・・・。生産者は消費者との接点が無い。接点を作るのが自分たちの役割だし、フィードバックされてモノづくりに切磋琢磨が生まれれば良いなと思う。

例えば、街中は空き店舗が増えて大変だって聞くと、「住んでいる人が困るだろうな、大根一本買えない街中なんて」と思う。だったら「どうやって大根一本を届けてやろう」と考える。「こんなところに需要があった」「これをやればあの人たちは助かるじゃん」というように、自分の分野で何が出来るかを検索すればよいと思う。各個店が「光る商品」や「光サービス」を持てば街が活性化され、外部環境に左右されない店づくりが出来ていくと思います。

掛川の

 

里山を使った多彩な農がある。「農の復権」を、ここ掛川から。

 

平野 正俊さん

ひらの まさとしさん

キウイフルーツカントリーJAPAN

 

― 掛川は、農業的にどんな地域ですか?

 

年間耕作が可能で一年を通じてさまざまな作物が収穫できる、非常に豊かな土地ですね。気候と土壌条件に恵まれ、雨も適度に降る。冬の空っ風は問題だけど、それを活かした芋切干や大根切干のような加工品がある。同じ県内でも各地で農業形態はさまざまだけど、掛川は比較的全域に里山がみられ、多種多様な農業のスタイルがあり、農家が個性を活かせる地域でもあります。

 

― 農を営む人々の暮らしの背景について聞かせてください。

 

全国どこでも農村は昔から貧しさの中で這いつくばり、耐え忍んできました。この辺りも、口減らしのための海外移住が多く、平野家は祖父の兄弟がみんな海外に出てしまったので、末っ子の祖父が仕方なく農家を継ぎました。私の場合は、子どもの頃から世界に対する憧れがあって、「農業をやろう」というよりも、「アメリカに行きたい」というのが先にあったかな()。「農業の勉強」と言えば、周りの理解も得やすいしね。

 

― なぜキウイフルーツ?

 

ほかの人がやってないモノを、という好奇心のみ。アメリカで出会ったキウイは、当時あちらでも試験段階。お茶が嫌いだったわけではないけど、親の下でというのは嫌だった。農家の後継者になるイコール地域への就職だったんだよね。従順に従うのが良い後継者だった。

でも、「キウイをやる」って言ったら、「なんか毛の生えた果物らしいよ」って噂が流れて農協も市役所も二十歳そこそこの私の話に興味を持ってくれた。農協を通じて国内で最初にウチのキウイが出荷されたし、銀座の千疋屋に並んで注目を集め、他の市場でも欲しい、という展開になりました。

 

― その後は順調でしたか?

 

29歳が大きな転機でね。親父が他界して、「農業で何がやれるかしっかり考えて進め」と命をもって訴えられた。当時は、流通や生産者を取り巻く事情にも納得がいかないことが多く、そこが方向転換のきっかけだったね。

そこで、5年間必死に考えて経営理念を作り上げ、35歳でキウイフルーツカントリーを開園しました。

 

― その5年間に考えたことは?

 

農村の課題を整理しました。まず、経済合理主義によって、農業から土地と人材が奪われたこと。農村からのビジョンを伝えられるリーダーが少なかったから、脱農業イコール地域発展という発想もあった。

依存体質も問題で、まず「農協は何をしてくれるのか」「補助金はあるのか」となる。教育分野では、「勉強の出来ないやつは農家になるしかない」なんて屈辱的な位置付けをされてきた。もう一つは、農村の閉鎖性。若者や女性、よそ者の意見を認めようとしない。私なんか変わり者だから壁を感じましたね。

そして、これらを具体的に改善する方策を考えました。人的交流を活発にするとか、ウチにいろんな人を呼び込むようなことをやるとか、そこに経済の仕組みを入れる方法とか。自分が挑んできたのは「農の復権」なんですね。そういうことにチャレンジしている仲間とも出会えました。

 

― 農業に対する関心の変化は?

 

見事に変化したと思います。バブル期を経て時代の閉塞感があり、神戸などの震災があり、「生きるって何なのか」を考えたり、食に対する考えが変わりました。人口増加、地球の砂漠化、いろいろな要素がその方向に向けさせています。

 

― 振り返ってみて、達成度は?

 

「こんな能力しかないのか」と思う部分と、「まあよくやってきたかな」という部分が両方。大失敗もしたし、「もっとこうやってやればよかったのに」と思うところも一杯あるけどね()

掛川の

 

産地なだけじゃない。緑茶による健やかな暮らしぶりがある。

 

堀内 尚さん

ほりうち ひさしさん

丸堀製茶株式会社 代表取締役

掛川市下垂木959-1

電話:0537-24-0123

 

 

― 掛川はもともとお茶処だったのでしょうか?

 

私が中学の頃までは、掛川のお茶は全国的にそれほど評価が高いものではなく、いわゆる「並のお茶」でした。静岡県で著名な緑茶といえば、山間地の「川根茶」や「本山茶」でした。やぶきた品種が出現して、深蒸し製法が加わり、掛川のお茶がだんだん認められるようになりました。

 

― NHKの「ためしてガッテン」で、掛川茶・深蒸し茶の健康効果が紹介されましたが、その反応は?

 

大きかったですね。「掛川茶」という固有名詞は、ほとんど全国的に認知されないものでしたが、放送後には大きな反響を呼び、デパートや量販店にも置かれるようになりました。やっと「掛川茶」という名前が全国デビューしたという印象です。これからは、それを育てる段階。そこに高級イメージを植えつけながら大きくしたいと考えています。

 

― では、堀内さんも参加されている掛川茶ブランド委員会が開発した最高級深蒸し茶の「天葉(あまね)」について聞かせてください。

 

産地茶といっても県内だと各地区のお茶にそれほど大差はなく、差別化が難しい。そんな中で、「掛川茶が美味しいですよ」と言ってもピンと来ない。だったら、掛川を代表する高級ブランド茶を作った方が良いと思いました。つまり、掛川茶をPRするのではなく、「天葉」をPRした方が良い。「掛川産 天葉」というようにね。「天葉ってどこで作っているんだ?」「掛川だよ」という順番です。産地や品種を最初に出すのではなくて、ブランドを作るという方策に変えました。

とはいっても、突出した掛川の高級茶というものは存在しないので、天葉は、存在しないものを見つけるところから始まりました。その頃、掛川の推奨品種に「つゆひかり」と「さえみどり」があり、従来の深蒸しのやぶきた茶とは明らかに味が違いました。この品種を使って最高級品を作れば、従来の最高級品とは味も違って差別化が出来るのではないかと考えたのです。

農家の方に集まって頂いて話を聞いてもらったら非常に協力的でした。お茶は5年経ってやっと採れ始めるので、当初は、つゆひかりもさえみどりも、海のものとも山のものともわかりませんでした。しかし、茶商と生産農家の協力で高級掛川茶にふさわしい「天葉」ができるようになり、今年で4年目になります。まだ最終的な完成品というわけにはいきませんが、明らかに個性的なお茶にはなっています。特にさえみどりは栽培が難しい。だからこそ面白い商品になると考えています。現在、天葉は、さえみどり、つゆひかり、やぶきたの3種類の品種を使い、最高級の深蒸し掛川茶として提供しています。

 

― 最後に、掛川の緑茶の流儀といったらどういうイメージをお持ちですか?

 

「掛川のお茶を飲んだから健康になる」、ではなく、「掛川の人のようにもっと緑茶を飲む生活を楽しんだらどうですか?」と勧めたいですね。

20年以上も前に市と病院が連携して進めた緑茶の生活習慣病予防研究「掛川スタディ」の結果は、正に「深蒸し茶を飲むライフスタイルが健康なんだ」という証拠だと思います。宇治や八女はあくまでも生産地ブランドですが、掛川は生産地でありながらお茶を日々楽しむライフスタイルの街だ、とすれば、掛川に住んでいる人のライフスタイルを含めて「掛川茶」というブランドになるのではないでしょうか。朝の一杯に始まり、何気なく深蒸し茶を毎日の生活に取り入れて飲むことが習慣となり、知らないうちに健康になっちゃう()。それが掛川の茶の流儀でしょうかね。

 

 

掛川の

 

掛川は、東西と南北の食文化の()。いも汁は独特の郷土食。

 

鳥井 万万さん

とりい かずまさん

割烹旅館 月茂登 代表取締役                      

 

― 食という切り口でひもとくと、掛川とはどんなところだったのでしょうか?

 

農村だから農作物があったことは間違いありませんね。今は大東や横須賀も入ったので海のものもある。旧掛川でみると、倉真とか北のほうは、かなりお蕎麦が有名だったようです。倉真は湯治場として昔の本に載っている。だから、蕎麦と湯治ということで、体を良くする場所だったようです。

 

― 掛川の食、というとまず浮かぶのがいも汁ですが。

 

いも汁は、旧暦99日の重陽節句で、節句料理として滋養強壮のために食べられていたようです。その時期に食材として芋が山にあったから。芋だけは年貢で取られなかったのでしょうね。

 

― 限られた食材の芋をいも汁にしたのは、なにか知恵があったのでしょうか?

 

「芋を家族で食べましょう」、となったときに、今みたいに核家族ではなく家族は78人位はいたでしょう。例えば、年貢で取られなかった芋とたったひとつの卵をみんなで美味しく食べられる方法、と考えれば面白いと思います。出汁は、塩の道で流れてきた塩鯖が一切れだけあるから塩分も補給できるし入れてみようだとか、塩鯖も入ってこない山側では川で獲れるアユやヤマメ、山で採れるシイタケなど、あるものを工夫して使ったのでしょうね。

 

― 掛川でも、いも汁は家庭によって違っていますよね。

 

出汁の主流は鯖だと思いますが、鯖出汁のところは、塩の道沿いの町場で流通が良かったのでしょう。横須賀など海沿いは根本的に味噌ではなかったようです。理由は、良い魚から良い出汁が出るから。だから澄まし汁を使うのですね。丸子など港と直結しているところは、澄まし汁で芋を溶きました。海との距離も関係あるのですね。

 

― 鳥井さんのところのいも汁の出汁はなんですか?

 

ウチでは鯛、スズキ、平目、アラなどの白身魚で取ります。鯖だと都会の人に好き嫌いがありますから。いも汁だけでも店によって異なるから「掛川に3回来たら、3回違うお店でいも汁を食べてみていただき、あとはあなたがお選びください」と言われたほうがいろんなお店に行きたくなりますよね。

 

― 天竜川と大井川の間は、東西食文化の間(ま)だと言われますが。

 

確かに蕎麦かうどんかの食の境目はありましたね。僕が若い頃、掛川には手打ちのお蕎麦屋さんがありませんでしたが、大井川を越えると多くありましたね。この頃分かってきたのですが、関東から来た蕎麦つゆは辛く、関西から来たのは甘い。西はうどん文化だから、甘いつゆでお蕎麦を食べるのです。この辺りの蕎麦つゆは独特の味で、僕は遠州味って呼んでいるのですけれど、甘しょっぱいですね。

 

― 鳥井さんは、ずいぶんお蕎麦屋さんを回っているようですね。

 

お蕎麦が好物で毎日食べていますが、店はその人の好みでよいと思います。上に大きな海老が載ってお蕎麦は超一流っていうゴージャスな蕎麦屋がある。変な親父が出てきて「ほい」って出すような蕎麦屋でも、おいしかったらそれはそれであり。

食の提供というのは、人を楽しませるエンターテイナーの役割があります。「鰹の塩辛が美味しい」と言っても、食べたことの無い苦手な人は、どんなに美味しい、といっても食べることが出来ない。ところが、熱いご飯に塩辛をべったり載せて美味しそうに食べている人が居ると、それを見て食べたくなるかもしれません。食というのは、それをいかに美味しくみせるか、いかに美味しくするか、だと思うのです。それも含めて「食」なのだと思います。

掛川の

 

ゆるゆる地形とスローなアイテムが、自転車旅の適地をつくった。

 

山崎 清一さん

やまざき せいいちさん

サイクルランド ちゃりんこ店長

掛川市上張526-9

電話:0537-22-5922

 

― 山崎さんが掛川にサイクルショップを開いて何年ですか?

 

19年になります。この間、スポーツタイプの自転車に乗る人が増えましたね。高級車メーカーから手頃なモデルが出るようになったし、ツーリング志向のロードレーサーも増えたしね。

そもそも、店を出した理由のひとつは、自転車を楽しむサイクリストを増やしたかったから。ヨーロッパでは昔から自転車を楽しむ文化があるけれど、日本では主に交通手段だった。今、自転車を楽しんでくれているお客さんが増えて広がっている実感と手ごたえがあります。店をやってよかったなぁと思っています。

 

― この地域に育つと、確かに最初の交通手段は自転車ですよね。

 

自分の最初の自転車は、従妹のお古だったけど嬉しかったね。高校生で通学用にドロップハンドルの自転車を買ってもらい、いずれ日本を一周しようと走り回っていました。日本地図を部屋に貼ってどこを走ったか印を付けたりしてね。車やバスでも行けるけど、どうせなら自分の脚で行く。それが魅力的だった時代でした。

 

― 自転車旅はどんな風に楽しんできましたか?

 

基本はいつも1人ですね。若い頃にはちょっとした軒を借りて一晩過ごしたり、途中で知り合ったサイクリストと仲間意識が生まれて2日間ぐらい一緒に走ったこともあったな。時々地元の人が「どこから来た?」と声を掛けてくれる。そんな時は、知らない土地もぐっと身近に感じて楽しさが増しますね。今はサイクリストが増えたし、ナビがあったりして大分様子も変わっていると思いますが。

 

― いろいろな道を走り尽くした山崎さんが、掛川はやっぱりおもしろい、というのはなぜですか?

 

山から海まであって、1年中走れるということに加えて、走りやすいし、走る場所がたくさんある。ヒルクライムのメッカになっている粟ヶ岳があるかと思えば、ゆるゆると茶畑の中を通る丘陵地帯もある。これだけ走っていても、未だに思わぬ風景に出くわすことが結構あるしね。地元のガイドと走るのも楽しいし、いずれ自分で走ってみたくなる要素がたくさんあると思います。何日か滞在しながらゆっくり楽しめるだけのバラエティに富んだ魅力がこの地域には詰まっていますね。だからこの地域はサイクルツーリズムの適地だと思います。

 

― 自分が好きな道、気持が良い道は?

 

いっぱいあるなぁ・・・。天浜線と一緒に走る田園滑走路が一番気持いいね。あと青田側から登る粟ヶ岳の道。山の急な斜面の間に茶畑があり、向こうにちょっとだけ見える町の風景が好き。掛川らしい景色だね。小笠山もいいなぁ。あとは潮騒橋。北側から南下すると空気の香りも変わってきて、おーっ、海が見えてきたぞ!という感覚。潮騒橋から海を背にして見る景色も好きですね。特に冬は空気が澄んでいて、遠くに雪が積もった南アルプスの山々や富士山がはっきり見えます。

 

― 初めて掛川に来る人に見て欲しいところは?

 

市内のあちこちにある素彫りのトンネルや、彗星が発見された五明の丘、天浜線沿いの田園滑走路を案内します。適度なアップダウンがあり、茶畑の風景があったりして、さらにローカル線との併走もありますから。細谷駅のローカルな雰囲気も好評ですね。歴史が好きな人は、掛川城、高天神城、横須賀城跡を巡るコースもできるし、豊富にある寺社仏閣巡りも面白い。あと、掛川にはおいしい食材、フルーツ、飲食店がたくさんありますから、寄り道も楽しいし、目的地にもなります。自分のペースでスローに楽しんで欲しいですね。

掛川の

 

歴史が刻まれた街道、寺社、風景。掛川に魅力は詰まっている。

 

上田 容啓さん

うえだ やすひろ  さん

掛川タクシー株式会社 ドライバー        

 

― 上田さんは、ドライバーでありつつガイドのような領域まで踏み込んでやってらっしゃると伺いました。

 

掛川の観光案内をフリーハンドで案内して欲しい、というお客さまのニーズは決して多くはありませんが、話題を提供しながらコースを決めていきます。大抵は、目的地が決まっていて、そこへ連れて行って欲しいというオーダーです。一番多いのは、掛川城と花鳥園でしょうか。最近では資生堂企業資料館・アートハウス、ねむの木美術館へというご希望も多くなりました。また中心部を少し離れると、高天神城、横須賀城跡、清水邸ですね。最近よくご要望があるのが、事任八幡宮です。事任の由来や、こうすればご利益があるよ、というような話題提供が求められます。

 

― 観光案内をして欲しい、という要望はご年配の方が多いですか?

 

傾向としてはそういうことですが、先日ご案内した方は30代でした。事任八幡宮がパワースポットとして注目されているからでしょうか。“歴女”もいるようですし、若い世代に人気の場所というのも以前に比べて傾向が変わっているかもしれません。パワースポットといえば、横須賀地域に安倍晴明の晴明塚もありますね。

 

― タクシーはできるだけ近い道を走らなければいけないという使命がありますよね。とはいえ、今あそこの花が見頃なので回っていきましょうか、というように遠回りをすることはありますか?

 

目的地を指定された場合はまずないですね。観光でいらした場合には、話の中で案内することはあります。それ以外は、最短距離ですね。それでも、エコパ方面に行くときには、スタジアムが見えやすい道を選んだりとか、初めて掛川にいらした方の場合には、掛川城がきれいに見えやすい道を通ったりと工夫することはよくあります。

 

― 上田さんは掛川のご出身ですか?

 

生まれは浜松ですが、掛川に来て1617年です。こちらでタクシー乗務員になって今年の12月で7年になります。以前は旅行会社に9年ほど勤め、添乗員として海外を含めいろいろなところに行きました。

 

― ほかの地域と比べて、掛川らしさはどんなところでしょうか?

 

掛川には、観光名所や観光地として目的地に指定しにくいような見所、風景のよい所、情緒的な場所がたくさんあると思います。例えば、横須賀の街並み、日坂の街道。日坂では、旧東海道の激坂「沓掛坂(くつかけざか)」が突如現れたり、人の手が入ったお茶畑の様子もよそから来た方たちには面白い風景です。コンパクトな中にわりと変化に富んだ面白い見所がたくさんある場所だと感じます。

先日乗せたお客さまは、掛川駅から事任八幡宮に向かい、日坂を経て久延寺(きゅうえんじ)へ入って金谷に抜けて行きました。多分、その先は石畳を歩いて金谷駅に向かわれたと思いますが、きっと歴史を感じられるであろう、とても良いコースだと思いました。

山方面では、大尾山(おびさん)や粟ヶ岳に行く場合があります。昔は福田の漁師さんが大尾山にお参りにいくことがあって、バスが通らない道はタクシーを数台連ねて行くことがありました。大尾山は形に特徴があるので、海から見て漁の目印になったそうです。

 

― 季節による変化もあるでしょうね。

 

当然ながら、季節によってお客さまの行き先も変わります。梅の時期にはしだれ梅の美しい龍尾神社に向かうお客さまが多いですし、花菖蒲の季節には花菖蒲園が増えます。仕事柄、四季の変化はとても感じやすいですね。車の中ではありますが、空気や景色の変化を感じながら掛川を走っています。

掛川の

 

葛布づくりの技は、人と人とが紡ぎ合う掛川の暮らしから生まれる。

 

小崎 隆志さん

おざき たかしさん            

小崎葛布工芸株式会社 代表取締役

 

― 伝統工業の葛布(かっぷ/くずふ)を家業とする小崎さんの仕事について教えてください。

 

葛(くず)というのは、あらゆるものが手作業で作られるものであり、人と人が繋がっていないとできない仕事の典型です。職人さんたちとは家族ぐるみの長いお付き合いで、親の代から支えてもらっています。私が生まれた頃は、織問屋さんが何十軒もありましたが、時代の流れで多くの方が転業・廃業せざるを得なくなりました。

葛が今ここに残っているのは、地元の爺ちゃん婆ちゃんのお蔭です。「何にもすることがないより糸を作っているほうが指先を使ってボケない」と言って働いてくれます。少しでも多く儲けてやろうというご時勢ですが、材料集めに近所の子どもを連れて行くと、自分の少ない賃金から200300円を「アイスでも買いな」と言って子どもたちに渡してくれます。また、鎌や鍬の修理を頼まれて、直して持って行くと、「いくらかかった?」と聞かれ、「いいよ、そんなもん」というと、「それじゃあ悪いから」と言って、野菜をいっぱいくれたりする。このような温かい人との繋がりが存続する中で葛布製品ができていきます。

 

― 小崎さんが、家業を継いだ理由は?

 

子どもの頃からの自然な流れでしたね。昔はこの辺の家並みが今とは異なり、隣と裏には芸者置屋さんがあって三味の音が聞こえ、同時に家の中では機を織るカラッカラッという音がいつも鳴り響いていた。高校生の頃には、自転車に大きな籠を付けて西郷や倉真地区に材料の買い付けに行く手伝いをしていましたね。大学卒業後は自然に家業に入っていました。生意気なことを言えば、掛川に継承された葛をなんとかここに残して続けなければならない、という使命感や義務感もありましたね。

 

― 伝統工芸の継承について聞かせてください。

 

全国の他の伝統工芸と全く同じで、「先に光がみえるか?」と言えば、なかなか難しいのが現状ですが、次代に継承したいという強い思いはあります。葛を自分の職業にしたい、という人が年に34人現れますが、その人が普通の生活ができる収入を得られなければ、「葛を継いでくれ」というのは酷だと思います。見合う収入がなかったらやらせてはいけないと思っています。

葛布の技術や文化を残そうという自分の気持ちは、世間になかなか伝わらないな、思うことが時々あります。そんな中、商売抜きで「いかにみんなに葛を知ってもらうか」という心で接してくれる人に出会うのは本当に嬉しいです。そういう方に支えられていますね。

 

― 機織り職人の山下しかさんをご紹介くださいますか。

 

しかさんとは、何の血縁関係もないけど身内以上の付き合い。雇用する側、される側という関係を越え、言いたいことを言い合える仲です。この人は一番速くて上手い。こんなに速く織れる人はいない。しゃべるほうもしゃべるけどね()。しかさんたちは、停電で真っ暗になっても織り続けていたよね。

 

山下さん:こちらで40年の余もお世話になり、隆志さんは小学校の頃から知っています。息子と娘は隆志さんと遊び友達で、家族ぐるみの付き合い。いろんなコトがあったねぇ、と話せる仲ですね。

 

40何年もやっていると、私も上手くなったものだ、と感じるものですか?

 

山下さん:何年やったから一人前、というのではないね。職人によって織り加減も、人毎のセンスも違いがあるからね。何もしていないより、織っているほうが体調も良いです。自分が織った布が商品になるのがとにかく嬉しいですね。

掛川の

 

老若男女、掛川は祭を中心に一年が動いている。

 

木村 友香さん

きむら ゆかさん

株式会社イシバシヤ モバイル事業部

 

― 掛川の祭といえば、イシバシヤ交差点。最も賑わう商店街の中心ですね。

 

はい。場所もそうですが、一番の祭り馬鹿が身近にいて()、それがウチの父でした。「男は一年で3日間だけ格好良ければよい」と。「残りの362日は、その3日間のためにあるんだ」と言ってはばかりませんでした。

 

― 木村さんも、お祭りが生活の一部になっているのでは?

 

父が父でしたので()。祭典中もお店は開けているので、「ももひき破れた」「雪駄が壊れた」と、町中の人が駆け込んできます。

私のまち“中町”は、東海道に面した宿場町だったこともあり、お囃子や長唄の数が多いのが特徴です。どこもそうでしょうが、「自分の町が一番」だと思っているのではないでしょうか。子どもの頃は、屋台の行動を仕切る格好いい青年外交と同じ法被を着ているのがとても誇らしかった。祭り期間中は、けっこうやんちゃな子たちも礼儀正しくなります。これも「この法被を着ているのだから」という身が引き締まる感覚があるからでしょうね。

 

― 掛川祭りでは、子どもや女性にもそれぞれ活躍の場面がありますよね?

 

掛川の祭は、昔から「衣裳祭」といわれるくらいに子どもの手踊りの衣裳が派手でした。夜はお母さんたちも法被に着替えて屋台周りを彩ります。粋な女衆が屋台周りにいると雰囲気がとても粋になりますね。中町では、女の子は手踊りが中心で屋台に乗せてもらえませんでしたが、子どもの数が減り、私が小学生の頃から太鼓を叩かせてもらえるようになりました。

 

― イシバシヤ交差点は、祭りの喧嘩場所というイメージがありますが。

 

喧嘩といっても、屋台を通すための外交の交渉ですね。外交というのは、祭典規則に基づいて、交差点に入った順番や状況、いわゆるしきたりの中で、屋台を止めないための話し合いだと聞いています。東海道が走る東西が優先、また大祭りでは、三大余興が優先などといった決め事があるようです。

 

― 衣裳はどのように変化しましたか?

 

資料を見ると祭の開催時期が変わっているので、大正時代の夏には浴衣にカンカン帽姿という写真もあります。藍染と長尺の法被になったのは昭和の終わり頃から。昔の法被はカラフルな色合いでしたが、時代とともに藍染のももひきに合うように、紺や黒などの落ち着いたものが増えました。

ウチの父は長尺の法被を絶対に受けつけず、染を注文してくれる町が、「長尺に作り変えたい」というと「掛川祭には合わないから作らない」と言っていた記憶があります。でも、衣裳も文化なので変化していくのも当然なのかもしれませんね。

 

― 祭りの伝承について感じていることを教えてください。

 

子どもたちに昔からのルールを教える場であって欲しいですね。人数が減ったせいで、成立しなくなる踊りもあり、太鼓や踊りが継承できなくなるという危機感があります。私も去年から青年に混じって踊りの練習に参加するようになりました。青年も役の兼任が増え、何もかも昔と同じという訳にはいきません。以前は見て聞いて覚えるって風潮があったけれど、今は言葉にしないと伝わらない事もあるのかもしれませんね。

 

― 今年は3年に一度の大祭りですが、大祭りは何が違いますか?

 

大祭は、やはり特別な感じで、楽しいものです。お祭り広場がありますし、各町大祭りだけの余興もありますし。「法被や小物を新調しよう」というきっかけになることも多い。子どもの頃は、毎日がお祭りで良いと思っていましたが、大人になってみると大祭の4日間は意外と長いですけどね()

掛川の

 

掛川の顔は、みんなで使う。他人任せにせず、自らお手入れする。

 

山本 和子さん

やまもと かずこさん

掛川おかみさん会 代表

 

― 街中で人が集まるさまざまな場面で山本さんのお顔を拝見します。まず、代表を務める「掛川おかみさん会」について教えてください。

 

平成8年にできました。私が参加していた「街並みのデザインを考える会」の予算が少し残っていたので、女性が関心を持ってまちづくりに参加できるヒントをもらえたらと、浅草のおかみさん会の冨永照子さんをお招きしました。その冨永さんとの出会いがきっかけです。その時に集まった人で、「私たちも会を作ろうよ」となって「掛川おかみさん会」が誕生し、なんと16年間、月2回の定例会をこなしています。

 

― 山本さんは一代会長で、ずっと代表を務めていますよね?

 

冨永さんから「その会の『顔』が出来るまで絶対にトップを変えるな、おかみさん会といえば山本和子、となるまで我慢せよ」と言われました。そんな中で皆さんが、若い人が良いからとりあえず和子ちゃんに()、ということになりました。

 

― 冬の風物詩となった「掛川ひかりのオブジェ展」についても聞かせてください。

 

きっかけは提灯行列です。1999年のミレニアム・イベントとして、おかみさん会で「提灯行列をやろうか」ということになりました。コースを決め、「人力車のおじさんも一緒に」「第九の合唱を」「広場に焚き火と甘酒を用意」など、商店街の方たちにも協力してもらい、それぞれが人脈を使って何が出来るか知恵を絞りました。

翌年、新世紀歓迎イベント「玄2001掛川」があり、その一環で、自分たちのひかりの作品でまちを飾る「掛川ひかりのオブジェ展」が誕生しました。提灯行列で灯りのもとに人が集まったように、ひかりに関わることで、「一過性でなくずっと続けられるもので、人の気持ちの居場所づくりができるイベント」を始めよう、と。

 

― その時に、「掛川の現代美術研究会」は既にあったのですか?

 

この会は、ほぼ同時期の平成13年にできましたが、当初はパブリック・アートのお掃除の会でした。掛川駅南口の「合体」、北口の「玄」のモニュメントの作家であるJun Suzukiさんから、「モニュメントは、そのメッセージをきちんと伝えられるように、いつもきちんと手入れをしていなければならない」と教えられました。その通りだと思い、市に「設置した以上、維持管理をきっちりして欲しい」という要望を出しました。「及ばずながら私たちもお掃除をしてお手伝いをするから、お願いします」と。会を作らないと続かないから「掛川の現代美術研究会」を作りました。

名前に「の」を入れたのは地域限定という意味。街に並んでいる現代美術作品を美しく保ち、「ちゃんとここにある」ということを知って欲しいと思いました。せっかくあるのに、生活者が知らないのはもったいないですから。

 

― ある人が、「山本さんの思想はお手入れの思想だ」と表現していました。手入れしていくことでもう一度光らせるとか、あるものをどう使うのかを考える思想だと。

 

あちこち出しゃばっている、って言われるかもしれませんが、自分の中では終始一貫しています。掛川には掛川城や掛川駅木造駅舎など「顔」となる素晴らしいものがあるのに、活用されていないとか手が入ってなかったりするのはすごくもったいない。市民が参加してまちのことに一緒に関わってもらえば、知り合いが出来るし、自分の居場所ができる。そういうことを重ねていくのがまちづくりで、まちの活性化にもなる。顔となるものをお手入れする活動を通じて、人の心が繋がっていくことも小さいようで大きな価値だと思っています。